犀の角のように

この記事は、地元管区の布教師会の会報に寄稿したものを加筆修正したものです。

お寺と僧侶と信用経済

「信用経済」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。
「評価経済」という言葉も同じ意味で使われています。
簡単に説明すると「信用」が「お金」と同じように価値を持ち循環していく経済システムのことです。

現在の社会は、インターネットを主としたテクノロジーの発展により、この信用経済の面が強くなっています。
SNSなどで個人の信用が可視化され、クラウドファンディングなどの手法で「信用」を価値あるものとして「お金」に変える手段が以前に比べて格段に一般的になったことがその要因です。

ここでハタと思うわけです。
「信用経済?何を今更?」と、信用経済をずっと地でやってきた業界があるじゃ無いかと。
もう勘のいい皆さんならお分かりですよね。
そうです。
誤解を恐れずに言うと、我々「お寺」と「僧侶」は、昔から「信用」を「布施」という形に変えて受け取ってきたのです。
そして、それをもって仏法を護持し、流布するための助けとしてきました。

では、そんな福田たる我々お寺と僧侶の信用は何によって支えられているのでしょうか。
それは「仏」「仏の教え」「日蓮聖人」「歴代先師」をはじめとして、宗門内外を問わず多くの先師たちの尽力によって支えられており、長い年月をかけて積み重ねられたものだということに思い至ります。

修行時代の思い出

日蓮宗の僧侶資格を取るためには、信行道場という身延山久遠寺で行われる35日間の修行を必ず修めなければなりません。
その信行道場の時に指導担当の主事先生に言われた言葉が強く私の心に残っています。

「あなた達は袈裟と衣を身に着けているから、一般の人たちが手を合わせてくれるのだ。自分自身が尊いとか偉いとか勘違いしてはいけない」

これはまさにその通りで、坊さんになって10年経ちますが、私なんかは袈裟衣を身に着けていなければはたから見ればただの人です。
普段着でそこら辺を歩いていても誰も手を合わせてくれませんし、頭を下げてもらうこともありません。
しかし、お坊さんではない人でも、頭を丸めて袈裟衣を身につければ、通りすがりの人に有り難がられて手を合わせられて頭を下げられることもあるでしょう。

これは、お坊さんの象徴である袈裟と衣には、歴史の中で培われた、莫大な「信用」が貯められている事の証左でしょう。
「袈裟」と「衣」の威を借りて、それをあたかも自らの価値と勘違いしてはいないかと、日々自分自身に問い続けています。

また、道場終了後に師匠に言われた「坊さんは若かろうがなんだろうが、同じ場にどんなに社会的地位が高い人が居ても一番上座に座らされる。しかし、絶対に勘違いするな」

も言わずもがなです。

この2人の言葉がいつも頭の中にあって、愚かな私を戒めてくれています。

 

お坊さんブームがきてる!?

近年はテレビなどのメディアにお坊さんが出演することも増えており、マインドフルネス瞑想や御朱印のブームも取り沙汰され、一見すると「あれ?お坊さんって注目されているんじゃない?」と思ってしまいそうですが、それは安易ではないかと私は考えています。

と言うのも、現在、俄かに評価され注目されているのは、お坊さんそのものでは無く、その先にあると思われている「仏への道」とそれに基づいた、お寺の持つ「歴史」とそれに付随する「文化的な価値」なのです。

仏教に興味がある人はお坊さん自体では無く、お坊さんを通してその向こう側、行く先にある「はず」の仏へと至る道に魅力を感じているのです。
メディアでお坊さんが面白おかしく取り上げられているのは、得体の知れないお坊さんの生態をエンタメとして楽しんでいるのです。
言ってみれば、遠くの国の知らない文化を面白おかしくみているに過ぎないのです。(別にお坊さんがエンタメとして扱われることを否定するものではありません)

奇しくも、先ごろ一連のオウム真理教に関わる事件の死刑囚に対する死刑が執行されました。このことによって、世間の「宗教」に関する興味と関心も高まりました。
しかし、これは、宗教=カルトといった印象を想起させるもので、決して追い風ではありません。
「坊主丸儲け」のイメージも強いです。
お坊さんはお布施をそのまま懐に入れて、所得に応じた税金を払っていないと思っている方が世の中の大半です。
世間一般の印象としては好意的なものより、これら負のイメージの方が多いのが現状ではないでしょうか。

 

これからのお坊さんはどうあるべきなのか

このように、良くも悪くも世間の注目を浴びる中、お坊さんには現代社会において、地に足をつけた「あり方」が問われているのだと思います。

原始経典のスッタニパータに

「人は生まれによって賤民となるのでもなく、生まれによって聖者となるものでもない。人は行いによって賤民ともなり、行ないによって聖者ともなるのである。」

という一節があります。

仏教は行為主義です。
その人がどのような尊い行動をしたかによってその人の貴賤を問うのです。
決して、血統や権威、肩書きから問うことはしません。
ですから当然のこととして「僧侶という肩書き=偉い」ということにはなりません。

私は、袈裟と衣で底上げされたものではなく「今を生きる個」としてのあり方を示していかなければならないと考えています。
お坊さんの行く先に、仏へと至る道が見えていなければならないのです。
そして、これには自分自身の行動で地道に積み重ねていくしかありません。
「お坊さん」だから尊いのでは無く、「行動」によって自分自身を尊い存在にしていくのです。

時代が、社会が、地域が、今を生きる人たちが、お坊さんに何を求めているのかもっと真剣に、もっと深く考えてみなければならないと強く感じています。

そして、釈尊が、宗祖が現代を生きていたら何を思いどう行動するのか、これらの問いに真摯に向き合い、答え、行動することが、今を生きるお坊さんの使命ではないでしょうか。

凄まじい速度で進化を遂げるテクノロジーと、それに追随する形で社会のあり方も激流のごとく変化し、人々のライフスタイルも変わり続けていきます。
旧態然とした「檀家」「墓」「お寺」「お坊さん」の関係性が、現代の社会に合わなくなってきているのは間違いありません。
そんな中で、お寺とお坊さんも変化しなければ、その本分を全うできなくなっているのでは無いでしょうか。

とても大きな時代の転換点の連続の中に立っているという自覚があります。

いつか、法話の質で人工知能に負けてしまう気がしています。
お寺とお坊さんなんか必要ないと言われ、お寺を潰してしまうかもしれない。
養うべき家族も養えなくなってしまうかもしれないとビビっています。
それでも、震える足にムチを打って立ちながら、今を生きるお坊さんとしてのあり方を問い続け、行動し続けなければいかなければならない。
そういう風に、少しずつ腹が決まってきました。
少なからず応援してくれる人や同志もいます。

 

悲観的になる前に

まだ為すべきことを何も為していない自分が、世間の風潮に流されて、闇雲に悲観的になっていたことに気がつきました。

まだまだできることやるべきことが沢山あるはずです。

それはただお寺の事業継続のみを考えたことではなく、価値あるものとして社会と人々の救いとなるためのものとして。

お寺とお坊さんに現代社会の中でどんな可能性と価値があるのかそれとも無いのか。

自分自身の行動で確かめていきたいと思います。

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